昭和43年07月30日 夜の御理解
途中末尾切れ



 私の弟にあたります、戦死致しましてから丁度終戦の年の今日ですから。終戦八月一五日が終戦ですから。もう十五日生きておれば、いわば死なんでも済んだと言う様な、ほんとにもう残念な、この上もない残念な思いを致しましたのでございますけれども。ほんとに信心を頂いたおかげで、その弟の御霊が今、今日喜んでおると確信されるようなおかげを頂いて。ほんとにあの時は家族中の者が、ほんとに目の前が真っ暗になるような、これだけ信心するのに。
 しかも十年近くも兵隊、もう現役から続けてございましたから、行ってほんとに無事に、もうほんとに終戦十五日前になって、戦死するなんて。ほんとに神も仏もあるものかと、まあ言いたいのでございましたけれども。そこんところをです、この神様の御都合に違いはないと。この神様の御都合に違いはないという、そこにお縋りして今日までおかげを頂いてまいりましたが。弟の戦死がなかったなら現在の合楽は開けとらんです。私はそんなに思うですね。いつもそれを思います。
 ほんとにあのこれは神様の深い、いわば御神意のことでございますから、信心さして頂いておって、どういうことが起こって参りましても、驚いてはならぬと仰るように、また信心をその為に揺るがすような事があってはならない、良い私は見本だといつも思うのです。ですから年々その立ち日には心ばかりの、また五年五年の年祭には、その式年の御祭りを、まあ奉仕させてもらうわけでございますが。
 ほんとにあのもうあの時にはあんなだった。ほんとに家族中の者がそれこそ涙に暮れたのだけれども、あなたの死がこのようなおかげの元になったと言うて御礼が申し上げられる時、私御霊は生きてくると思うですね。そういう意味でいつも私それを感じます。只今も私だけで玉串をいいと思いよったけれども、もう一本作ってあると言うから、まあ父が代表で上げた訳ですけれどもね。
 是はもう親の事ですから子供の事が忘れる筈もないし、又情としても一番誰よりも彼よりも、親が子を思う情というのは強いのでございます。ですから親の思いというのは御霊に通じんはずはなか。親の真心が通じん筈はなか。と言うだけでは信心が成り立たんのです。信心というものはねその自分の思い、本当にこげん思うとるなら思うとる。真心ならその真心がです、何か形に表されなければ値打ちは無いのです真心でもね。
 ですから私はね、ただそれに羽織のひとつも掛けてという、それは形のことのようですけども、真心が形に表れたのが、そのいわば羽織を掛けた姿だと言う事になるのですよね。ですからあの形だけではなりません。けれどもその思いが形に表れると言う事がです、もうそりゃあ神様を拝まんでん私の心にいつも神様がござる、あたしゃ金光様を忘れとらん、もういつも合楽の金光様の事を思いよる、と言うてお参りもしないというのは、それではあまりものの信心だと言う事になりますね。
 そりゃあ思うとらんよりはいいでしょう。けれどもその思いが形に表された時に、私は真心で通じんはずはない。真心が通わんはずはない。というふうに言われますように、この真心と言う事は、お道の信心ではもう、口を開けば真心という言葉が飛び出してくるですね。真心という言葉が出てくるです。ですからその真心も、それはぴんからきりまであるですね。例えて言うなら今日、東京から稔さんが今日帰って来ましたけれども。あちらからお鮨の材料の魚を持って来て。
 それでもう毎年帰ってくる度に、いわゆる江戸前の本当のまあ握り鮨ですね。鮨をお座敷鮨です。こういろんな道具も、お店と同じようにこう置いて、飾ってそしてまあ私共にお鮨を握って食べさして下さるわけですね。真心がそのようにして表される時にですね、そこにはもう今日一日のようなことだけでも、様々なおかげを受けております。それがですね、この忙しいお参りの多い中に、もうその合間を縫うようにね、ぴちっとおかげを受けておるですね。
 ですがね例えば私は、あの今日一時の御祈念終わって、ここお届け終わったのがもう二時でした。ちょうど二時に終わったところへ、あちらの準備が出来ました、私の部屋のまあ冷房の効いた部屋で、ちょうど四・五人の者がおりましたから一緒に頂いたんですけれども。そしてお鮨を頂きながら、一杯御神酒を頂かしてもろうて、さあもうこれで腹一杯なった。これで四時の御祈念がっと、まあ時間を見た訳ではないんですけれども、私が拍手してあの御馳走さま致しましたら。
 すぐ久富さんが「四時前十五分でございます」と言うて呼びに来て下さったね。ちょうどそれから奉仕着に着替えて、ここに出らして頂いたら、四時というところでした。御神前に出らして頂いて、これも必ず三十分間、御礼さして頂くんですね。昼の午後の四時のお引けの時間ですから。ところが今日私祝詞座に着かして頂いてから、御礼を申さして頂いた途端に頂きますことがね、『それで良い』と言う事であった。私の耳に響いてくるものが。いやそうじゃない。『もうよい』と言う事であった。
 それがですねもう、今日はそげん酒飲んでから、酔っ払ってから御神前出て来てから、と言った様な響きではなくてですね。あのとにかく私が例えば、御神酒を頂いておっても、そういう中にあっても、やはり四時の御祈念だけは、ぴちっと例えば私の思いが表わされた時にです、もう神様は私が御神酒を頂いてきついことを御承知なんですよね。ですからいわゆるもうよいと。まああちらにはお客さんが待っていると。と言う様な響き感じで頂きましたが。
 信心の大事なところはそれです。もう今日はお客さんがあっとるから、もう一杯酒飲んどるから、神様も御承知じゃから、もうこれで御無礼しとこう。これではね信心は成り立たんのですね。こうと決めたらこうと成される時ね。神様はそれをまた成させようとする様な事をなさらない。ですから今日はそうですね、十分足らずの御祈念で私はそのまま下がらせて頂いたんですけれどもね。信心はその辺が大事ですね。自分の思いと言った様なものが、この貫かれると言う事が大事ですね。
 今日そのお鮨を頂きながら、稔さんが話とる中にやはり日本一のお鮨屋さんですね。それは日本一のいわば、大きなお鮨屋さんという意味じゃないです。けれどもやっぱり日本一だろうと思う事は、やはり天皇陛下にでもお鮨を握って、毎年差し上げられるのですから、やはり日本一です。こんどもこちらに帰って参ります時に、お店で頂いておる、天皇陛下から頂いておる、もうそれは見事な菊の御紋章入りの三段組の杯を、まあとにかく親先生にこれで御神酒を頂いて頂くというわけなんです。
 わざわざ持って来とるです。その箱書きに横田さんとかいう、大変偉い御方だそうですが、箱書きに書いておられます「菊香る日本一の うまい鮨」と書いてございますね。確かに私は日本一だと思うね。そうでしょう。日本の長であるところの天皇陛下に、お鮨を握って差し上げれるというのですから。日本一ですよやはり。鮨屋でもいわば鮨屋が違う、と言った様な感じが致しますね。その日本一の鮨を私にも毎年帰って来た度にね、必ず二回ぐらいは、その東京から持ってきた材料で握る。
 そしてまたこちらで材料よせて、また握って下さると言う様に、その思いとか真心っていうものをそうして表して下さる。信心というのはね思うとりますじゃなくて、思いを表すところにです、私は神様に通うものがあるね。例えばなら言葉だけでもそうです。稔さん、そのお鮨握りながら話してますんですよね。私の方ではそのお客さんがね、ここで「いらっしゃいませ」「有り難うございます」お客さんに、例えばどこの店だって言うけれども、ここの有り難うございますはね。
 小僧さん達に至るまでね、もうその芯から有り難そうだと言うて、そのお客さんが言われる。だから僕自身が結局まあ、二葉のまあ職人としての長ですかね。それは自分がそこの娘婿としての店に、それだけの愛情を持っておるからと言やもうそれまでですけども。そうでない昔からです、店に対する愛情が、例えば日ごろの信心がですね、その言う一言の「いらっしゃいませ」「有り難うございます」がです、やはりそれが真に有り難いものとして、お客さんに響いてくる。
 それが五編、十編、二十編とです、本当に「有り難うございます」が言えれる時にです、ここで言う「有り難うございます」は違うと言う様にです、お客に響いていくそれが真心なんですね。ただ有り難くもないのに心で有り難うございますね。例えばデパートあたりで、あのショップガールの方達が「毎度有り難うございます」と言うのは、ただ爽やかな感じで響いてはきますよね。綺麗な声であのエレベーターガールなんかが「毎度御乗車頂きまして有り難うございます」と言ってその確かに響きはいいです。
 悪い感じはいたしません。けれども心に残るようなものじゃないでしょう。それはやはり、言葉だけだからなのですね。店を愛するそれがほんとに一人の、どういう一人前二百五十円というお鮨のお客さんが一番、まあ安いお客さんだそうですが。それの二百五十円のお客さんに対しましてもですね、一万円のお客さんに対しましても、その「有り難うございます」が変わらん。心から「有り難うございます」が言えれる。
 おかげで他の職人さんも、小僧さん達に至るまでです、いわゆる「いらっしゃいませ」「有り難うございます」が心から、あの言えれるまあ感じです。ですからお客さんに対する響きも、まあ良いと言うて喜んで下さるという話をしてましたが。ほんとそうだとね。ですから自分のほんとに思いというものがね、通わないはずはないですね。自分の真心でも通わんはずはないね。
 願が成就しない時にはね、お前の真心が欠けとると悟れと、神様が仰るくらい。ですからその真心とか真と言った様なものはね、勿論ならそれで良いというのじゃありません。限りがないね。だから信心はいわば真心の追及なのである。ただ形だけではいけないと言う事である。口だけではいけないと言う事である。それは神様に嘘を言う様なものなんです。それで神様に通う筈はない。
 真実心から思うとります。それが「有り難うございます」になってくるね、それが十回、二十回と・・・  【途中でテープ切れました】